大学進学で一人暮らしを始めた春。
不動産屋に紹介されたのは、古びたがどこか味のあるアパートだった。駅からも近く、家賃も相場より安い。「四階だけ空いてる」と言われ、深く考えずに契約した。
入居当日、鍵を開けて中に入った瞬間、なぜか冷たい風が頬を撫でた。窓は閉まっていたのに。不思議に思ったが、荷物を運び入れ、引っ越しを終えると疲れてそのまま寝てしまった。
最初の異変は、夜中だった。耳元でかすれた声がした。
「……かえして」
誰もいない部屋で、はっきりと聞こえた。夢だと思いたかったが、それから毎晩、決まって午前2時ちょうどにその声が聞こえるようになった。
「……かえして、かえして」
ある晩、声に耐えきれず起き上がると、クローゼットの扉が半開きになっていた。閉めたはずだ。恐る恐る近づくと、中には誰もいない……はずだった。だが、ドアの裏側には爪で引っかいたような跡が無数にあり、「かえして」と何度も書かれていた。
震えが止まらなかった。
次の日、不動産屋に問い合わせた。「この部屋、以前誰か住んでいましたか?」と聞くと、しばらくの沈黙のあと、「何もありませんよ」と早口で返された。逆に不自然だった。
その夜、ついに“見て”しまった。
午前2時。いつもの声。だが今度は声だけじゃない。部屋の角、薄暗い天井近くに、女の顔が浮かんでいた。髪は濡れたように張り付き、白目がちの目がこちらをじっと見ている。動けなかった。身体が金縛りにあったように硬直し、目だけが女と合っていた。
「かえして……私の部屋……私の体……」
翌朝、意を決して大学の教授に相談した。民俗学を教えている年配の先生で、話を聞くと顔色を変えた。
「君、それ、四階の角部屋か? そのアパートは昔、失踪事件があったんだ。女子大生が突然消えた。警察も入ったが、何の痕跡も見つからず、最終的に“家出”として処理された。だがな……噂では、その子の最後の目撃場所が、君の部屋だったらしい」
怖くなってその日のうちに部屋を出た。幸い親が事情を理解してくれ、実家に戻ることができた。
だが、終わっていなかった。
ある日、実家の部屋の鏡に、見覚えのある女の顔が映った。後ろには誰もいない。
鏡の中の女は、静かに微笑んでこう言った。
「ねえ、ここ……あなたの部屋じゃない」
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